正義に依存
昨日久しぶりに長めに走ろと思ったけど暑くなりすぎてギブアップ。川面のキラキラに心踊った。
27日火曜日の朝刊の寄稿文に心動いた。『言葉を消費されて』のタイトル作家星野智幸さんによる寄稿。
現在のウィークポイントというか危うさというか悲しい側面が言語化されてた。
人の弱さ
「弱って自分1人ではどうにもならない苦境から脱するために居場所を必要...」
「誰もが自己を放棄して無謬性にすがりついてまで安心できる居場所を欲している現在...」
このような状態になっており
危うさ
無謬とは間違いがないという意味。
カルトの本質は無謬性にある。無謬性に完全服従し、自分も間違いのない存在と認識。それぞれの無謬性の感覚をベースに否定し攻撃しあってる
という現在の状況。
それぞれの「正義」の名の下に、「日本人」というアイデンティティの名の下に...
この記事よんで思ってたのが最近私勉強がてら参加した団体が無謬性で繋がってるコミュニティやった気がする。ただそこに居たらめちゃくちゃ違和感を覚えるという感覚にもなったんですよね。
SNSの普及で人と安易に繋がりやすくなった現在、良い面はもちろんあるけどその副作用の強さが我々人類に強すぎたのか、はたまた我々人類が弱すぎたのか?
何が正しいかとか正しくないかを分かっている訳ではないけど、というか正しい正しくないではなく「みんな違ってみんないい」の名の下に『私』として強くも弱くもなく のんべんだらり偶にシャキッと そんなこともあるよね〜とか言いながら生きていきたいし、どうせやったらそういう人たちと繋がっていきたいわ。
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